教育現場で働いていた頃です。美術の教師だったのですが、毎年配布される教科書には必ずピカソのゲルニカが紹介されていました。他にもモネ、ルノアール、セザンヌ、ゴッホなど西洋美術を中心とした絵画が中心だったような気がします。
西洋絵画の美術史を紐解いていくと、宮廷画家の時代からルネッサンスを経て、画家が画家の思いをもとに、自身の意志と意欲によって表現される時代へと変化していきました。あまりにも大まか過ぎてはいますが、宮廷のための画家から画家自身の表現の価値が重んじられるようになったと理解しています。
文化は必ずどこかで接点を持っているようです。フランスで育まれた様々な表現、とりわけ印象派の表現方法は日本に黒田清輝によって伝えられたという説があります。一方では黒田清輝によって印象派は歪められて伝えられたという説も聞いたことがあります。絵画表現の流れは、フランスの印象派以降に限って言えば、大変興味深いものがあります。「へっぽこ絵描き」と揶揄されていたセザンヌの物を見る、描くという追及は、キュビズムを生み出し、多くの画家に影響を与えます。
ピカソはキュビズムの完成者と言っても過言ではないと思います。キュビズムの表現の根本になっている、物を一方向から見た物の姿だけではなく、様々な角度から見た姿を、一枚のキャンバスに集約し、物の本質として表現するという革命的な表現方法は、その後の絵画にも影響を与えます。キュビズムは抽象絵画へとつながって行きました。また抽象表現には「熱い抽象」と呼ばれるカンディンスキーの表現の端を発した流れと、モンドリアンの表現をルーツとする「冷たい表現」と呼ばれる二つの流れに分けていく考え方も取られています。おそらくデザインの表現にもモンドリアンの表現方法は影響を与えているものと思われます。第二次世界大戦をはさんで繰り広げたれたダダ、シュールレアリスムも現代に通底するものでしょう。さて、私のことになりますが、20代から今の50代まで、ずっと絵を描いています。若い頃から抽象表現に惹かれてきました。自分でもその理由はつかめないのですが、次のエピソードは若かった頃の私の心に強く影響を与えたのではないかと思います。
それは、抽象表現に入った頃のピカソの「アヴィニオンの娘たち」を見た友人が「ガソリンを飲んで描いたような絵だ」(趣意)と、ある意味酷評したのに対し、ピカソが抽象表現を見る際には「小鳥のさえずりを楽しむように見て欲しい」(趣意)と答えたというエピソードです。この言葉には視覚的なものの中に音楽的な感性を求めていると思えます。音楽はその意味で最も抽象的な表現だと思いますが、ピカソが望んだのは、頭で理解しようとばかりはしないでほしいという意味も含まれていたように思えるのです。私は音楽も好きです。抽象絵画も好きです。私の心の中に、自由な感性による表現の魅力を求める思いがあるのかも知れません。一概にくくって言えることではありませんが、描き手の表現と、見る人との関係が触発の場となり、ひいては見る人の心に光が届く、そのようなものが「表現」にはあるような気がします。音楽家のシューマンが「美しいものは人の心の闇に光を届ける」(趣意)と言ったのは、美しいものを受け取る側だけではなく、彼自身の心の闇が、彼自身の表現によって彼自身の心の闇に光を届けるという意味にも取れると思います。絵画から音楽の話になりましたが、絵画も音楽も同じように表現する側も、見る側も同時に何がしかの価値を得るという関係が成り立つということではないでしょうか。私もそのような絵画を描きたいと思います。